自分語り:嫁の扱いと所在

まずは下のページをば。

今日もやられやく きたないな・・・あずにゃんアンチやる事が汚い

とある2ちゃんねるコピペブログの記事のひとつなのですが、冒頭の流れにおいて恋人の存在を示唆させるコラを貼られたことで原作未読組と既読組の反応が真っ二つに分かれています。
未読組曰く「あずにゃんも中古か」「彼氏付とかオワタ」などの否定的発言。
既読組曰く「よく作ったなw」「違和感ない」「勘違いしそうになる」など、素直にコラ職人をほめる言動。
これらの反応は後に貼られた原版の画像で一時の騒動は終わりを告げました。


さて、突然ではありますが、ワシはけいおん原作未読者です。一番のお気に入りはアホの娘・唯であるけれど、今回の件とは関係ないので省略。
未読者であるため、今回のコラをみて最初に「梓は彼氏付」と言う誤報を鵜呑みにしてしまった一人であります。
そこでワシはもちろん梓が一人身でない事実に憤慨し……ていません。むしろ喜んでいたかもしれない。

アニメ、ラノベ、マンガ、エロゲのお気に入りのヒロインを「俺の嫁」だって幻想で塗り固めて自分を慰めるのはよくあることだし、一定の信仰を集めていると言うのもよくわかります。今回のコラだって否定的な意見が出てきたのは、今までも(実際でも)一人身であるはずのあずにゃんに…「俺の嫁」には、俺以外の俺以上に嫁である彼女に近しい彼氏がいたという厳然たる事実を否定したかった心の動きから発言されたのでしょう。嫁をめとっていいのは俺だけだという独占欲にも近い嫁信仰。俺の数だけ嫁にされる。まさに「みんなの嫁」です。
しかしワシはこのコラを…家族と過ごす予定が彼氏と過ごす予定であると摺りかえられたコラを見て、逆に安心感を持ってしまったのです。「ああ、彼氏がいてよかった」と安堵にも似た気持ちを抱えた瞬間でした。
その安堵がどこから由来するものなのか、とても興味深いものだったのでちょっとばかし自分の中で言葉を纏めていたのですが、割と簡単に見つかりました。
それは「創作物に対する姿勢」からきているのだと。

基本ワシはアニメ、ラノベ、マンガ、エロゲに触れる際にはひとつ心掛けていることがあります。それは「主人公と同化しない」と言うことです。
二次元の世界とは途轍もなく魅力的で、蟲惑的で、麻薬的です。一度楽しみを知ると抜け出せない理想郷桃源郷天国みたいなところなのです。しかし二次元と言う名前通り三次元の世界に生きる人間には、どうあがこうとも二次元を五感で感じる器官も機能もありません。そこで物語の中心に主人公、あるいはそれに類する人物(あるいは群)を据えて、そこから広がるように物語として見据えていくしかないのです。言葉にすれば「主体と視界を一致させる」と言ったところでしょうか。
そして主体が見せる、あるいは見ている風景光景日常非日常を共有することで、あたかも自分もその場にいるように錯覚する、と同時にキャラクタに対する愛着も蓄積していく。蓄積していった結果、最終的に「俺の嫁」信仰が出来上がります。大半の人はこういったプロセスを辿って物語に没入するのではないでしょうか。

ですが、どうもワシはそういった視界の切り替え方が致命的に苦手らしく、主人公と一体化することもなければ物語世界に没入することも少ないのです。いや、厳密には物語、作品世界の空気を感じることはありますが、少なくとも自分自身を作品世界にトリップさせることはありません。
有体に言えば、自分と言う認識を持っている視界を持っていても物語に直接的に介入できない時点でそれは別次元であるため、現実の三次元と切り離して物語を愛しキャラクタを愛でるのが需要側の正しいあり方だ、て感覚でしょうか。物語に対する愛着もキャラクタに対する愛情も沸いてきても「俺の嫁」的な独占欲を体現したような二次元世界へのトリップへとシフトすることが非常に少ないのです。けいおんでも唯をかわいいとなでたいと思いつつも「俺の嫁」宣言を出すことが出来ないのです。

しかしそんなワシにもひとつの例外があります。気兼ねなく「俺の嫁」と発言するキャラクタが圧倒的に多い媒体があるのです。アニメでもなくラノベでもなくマンガでもないそれ…すなわちエロゲの攻略ヒロインたちです。
一体何故なのか。それはきっとエロゲと言う媒体だからこそなのでしょう。

アニメやラノベやマンガは、基本的に自由です。日常を描こうがラブロマンスを描こうがアクションを描こうがサスペンスを描こうがコメディを描こうが、それぞれのジャンルに一定の需要があります。まさにナンデモアリの玉手箱状態。
しかしエロゲは違います。大半のエロゲもジャンルがコメディやらサスペンスやらアクションやらラブロマンスやら日常やら描いていたとしても、根底にあるただひとつだけのものは変わりません。
そうです、性交渉です。
性交渉を行うにはもちろん、鍵と鍵穴、男性と女性と言うカップリングが成立している必要があります。それはエロゲヒロインにおける、運命の相手、主人公とヒロイン、オトコとオンナ、彼氏彼女。
すなわちエロゲにおいてヒロインは、プレイヤーの誰もが認める、一体化している、主人公とそれに類する人物との既成事実というものが成立しているわけです。だから気兼ねなく主人公との性交渉をみてオナニーするし性欲も発散するし性交渉を見ても既成事実があるのだから傷つかないわけです。
要するにヒロインにも人権を求めてしまっているのでしょう。ワシもお気に入りのエロゲキャラを口酸っぱく「俺の嫁」なんて口ずさんでますけど、結局は主人公とのカップリングと言う既成事実を前提としたものであり、自分と置き換えることはありません。愛を叫ぶのは二人だけで十分です。これ以上はいりません。

きっとそういうことなのです。つまりワシはエロゲ的俺の嫁フィルターを他の媒体にも使ってしまっているのです。アニメやラノベやマンガにおいて適応がひどく難しい「既成事実」と言うフィルターを、きっとキャラクタにも求めてしまっているのでしょう。
だから皆が口を揃えて「俺の嫁争奪戦」を口酸っぱく口走っていても「そんなに亭主いらないだろ」なんてドライな感想が出てきてしまいます。

そこで冒頭に戻るわけです。つまりワシは、あずにゃんにも彼氏がいると言う冒頭のコラを見て安心したのは、「これであずにゃんも俺の嫁論争なんて不毛な信仰から逃れたんだ」と言う気持ちと、「あずにゃんにも愛を共に囀る人がいたんだ」と言う、さながら娘の独り立ちを見守る父親のような心境とが同時に体現したんだと思います。別に父親を気取っているわけではないけれど、そう思っても仕方ないです。
物語のヒロインたちにも、別次元で嫁嫁と叫ぶ連中以上に相応しい相手がいてもいいんじゃないでしょうか。以上結論。



しっかしアレですよね。亭主が無尽蔵にいたら嫁もいろんな面で大変ですよね。逆ハーレムなんて夢のまた夢です。嫁に亭主は一人で十分だ。