演出家「るーすぼーい」へのラブレター 〜シナリオのセオリー〜

(初出:theoria『恋愛ゲームシナリオライタ論集30人×30説+』)


0.寄稿によせて

 今まで二桁を数えるくらいしか恋愛ゲームをプレイしていない若輩の身であるが、その中でも特に際立って自分の心を捉えて離さない、唯一無二のシナリオライタが存在する。彼の紡ぐ物語は常に自分の心に重いシコリのようなものを残すこともあれば、人生における倫理観にも呼びかけるくらい強烈な印象を与えてくれた、間接的に自分の生き方にも影響を及ぼしたと言い換えてもいいだろう。事実彼の作品だけ、商業展開に沿ったものだけであるが全て蒐集するほどに、自分は彼にあてられている。浮かされている。そんな彼については作品をプレイする度に思うところがあり、時を経た今だからこそ書き連ねばならぬものがあるだろうと常日頃から感じることがあった。今回この場を借りて自らの思う彼への気持や疑念や熱情を、思い至ったところや感じたところを全てをぶつけていこうと思う。だからこそのラブレターなのだ。
 その彼の名は「るーすぼーい」である。今回の企画で自分が担当することになった、憧れでもあり畏れでもある何かを抱かざるを得ないシナリオライタだ。
 今回のような立場にあることが俄には信じられないことであるが、こうして機会を与えてくださった主催者のthen-d氏には、改めて感謝の意をここに表明したい。
 では前置きも早々にして、本文へと移りたいと思う。
 なお本文には主旨の特性上『車輪の国、向日葵の少女』(以下『車輪本編』)『車輪の国、悠久の少年少女』(以下『車輪FD』)『G線上の魔王』(以下『G線』)『その横顔を見つめてしまう』(以下『その横』)のネタバレを多大に含むことを留意していただきたい。


1.車輪の国に見る等身大のキャラクタ

 るーすぼーいの魅力なるものを考えるにあたりまず最初に思い浮かんだのは、作品内に点在するキャラクタたちの「強さ」に依存している点にあるのではないかと言うことだった。強さの定義も曖昧なものであるが、精神面と肉体面双方の観点から判断された、純粋な力や魅力のようなものを表す単語として扱ってみた。
 そこから導き出された結論は、彼の作品に登場する人物たちは、作品単位で考えると皆一様に強すぎる人物と弱すぎる人物が錯綜しているのだ。その全体の模様から紡ぎ出されるキャラクタ同士のドラマチックな相関関係こそがるーすぼーい最大の魅力として機能しているように思えてくる。
 具体例として『車輪本編』と『車輪FD』から読みとるなら、法月正臣・・・ひいては特別高等人と言う車輪の国特有の、罪人が刑務所に入らず日々の生活で義務と名の制約を課せられる希有な法律制度が絶対的な社会の権力者の象徴として作品全編で存在感を醸し出している。背景設定の一言で済ますにはあまりにも無視できない事柄の一つだ。これは『車輪FD』で本編における正臣の立場として上り詰めていた法月アリィにも共通する事柄である。

【法月将臣】「謝るな」
【法月将臣】「指導者は、謝るな。誰かに責任を押し付けられない立場の人間の謝罪が許される社会は堕落の一途を辿る」
(車輪の国、向日葵の少女『第一章 特別高等人』)

【法月アリィ】「謝るな」
【法月アリィ】「以後、生きている限り二度と謝るな」
(車輪の国、悠久の少年少女『序章 姫君』)

 特別高等人の一連の言動は全て社会と言う人間社会の不文律を背景としており、裏打ちされた正論と暴力で何もかもを握りつぶす力を秘めている。義務を課せられた罪人を裁くのも殺すのも放つのも特別高等人のさじ加減一つで決まってしまう。以上の点から作中でも絶対視される物理的な力を所持していると言い換えてもいいだろう。まさに主人公やヒロインの立ち位置からすれば正しく悪役としてそこにいる。
 翻ってヒロインたちに目を向けてみる。作中において「向日葵の少女たち」と揶揄される彼女たちは、一様に義務を課せられており罪人としてのレッテルを貼られている。彼女たちに肉体面での体力もなければ社会としての後ろ盾も全く存在しない、理性的に見れば敗北者であることは明らかであるはずだった。しかし彼女たちは本当に敗北者だったのか否かは、プレイしているユーザーなら目の当たりにしているはずである。彼女たちが暴力に屈しない程度の精神的な強さを象徴していることは明白だった。最終的に彼女たちは物理的暴力の象徴である正臣に屈することなく最後まで抵抗していたのだから。
 往々にしてこの手の強さを手にして、ハッピーエンドに至るまでの救いをもたらすには、物語の展開において主人公との出会いによる環境の変化が直接のきっかけになり、主人公がヒロインを救う方程式が成り立つことが多い。有り体に言えばボーイミーツガールの典型であるが、向日葵の少女たちの場合このセオリーには当てはまらないのではないだろうか。むしろ主人公の賢一こそがヒロインたちによって救われる構図が成立しているのではないかと考えている。
 もっと単純な言葉で表現するなら、ヒロイン自身の決断に主人公が差し挟む余地が全く見つからないのだ。あくまで最後の最後の精神的な強さを奮い立たせて現実に立ち向かう勇気を取り戻したのはヒロインたちの所行であり、どの場面においても主人公の賢一はよくて橋渡しか、最悪決断の阻害を促しているのであって、ヒロインの決断や所作に直接的に影響を及ぼしていないのである。
 厳密に言うならヒロインは主人公に精神的には依存しているのかもしれない。しかし彼女たちの決断はあくまで彼女たちのものであり主人公は埒外の領域に追いやられていると言える。それはさちとまなが「あえて離れる」ことを決断したときであり、灯花が手料理をよそい続けて「選ばない」ことを表明したときであり、夏咲が賢一を庇って想いを声高に叫んだときである。少女たちの各々の決断は賢一の心に確かな安らぎと精神的な強さを自覚させることになる。この互いに作用しあって補助しあう従来の構図とは違う、キャラクタ単位での独自の強靱さこそがるーすぼーい作品を輝かしく見せる一因だろう。
 そんな賢一の一連の精神的な強さを育む課程と反比例してしまった例が、法月こと阿久津正臣の過去である。彼の場合、みぃなが作詞への情熱と正臣の両親への思いやりに殉じて、法月アリィからの執拗な暴力に断固とした態度で抵抗し続けたことを目の当たりにしたことで、自らにない強さを彼女に見いだしていたことは間違いない。それは彼がみぃなを慕うようになったことが何よりの証明となるだろう。だがそれを目にしても自らの理性的な考えを払拭できなかったことが何よりも正臣と賢一の違いを如実に表していると言える。結局正臣は考えることを放棄したに等しいのだ。立ち位置は賢一に非常に似通っていたにも係わらず理性を捨てきれなかった脆い男がそこにいるだけだ。そんな彼も『車輪FD』ラストシーンにおいて向日葵の少女たちの決断に促され、愛に殉じることになる。
 つまり正臣たち主人公の立場についているものが肉体面での強さを遺憾なく発揮している反面、精神面で理性を捨てきらず弱りきってしまっていることに対して、ヒロインたちの精神面が強すぎるのだ。最後の決断を促される前に自らを奮い立たせて物語を強制的に動かしてしまうくらいの強さを秘めているのだ。さながらヒロインの存在こそが物語と同義であるかのように。この対比構造の関係である故に人間的な等身大の姿が映し出されていることが更に正臣や賢一の魅力の一つとして見えているのは間違いない。


2.引き継がれるG線上の魔王

 そしてこの強靱過ぎるヒロインと脆弱すぎる主人公のアンバランスな対比構造は『G線』でも正しく引き継がれることになる。しかし『車輪本編』『車輪FD』と決定的な違いがある。主人公が所属するのは、社会的観点で見れば紛れもない「悪」であることだ。このことに関しては『G線』発売記念ブックのインタビューにてるーすぼーい本人からのコメントがある。

【るーす】「『G線上の魔王』は“悪”の話なんですよ。ハルや椿姫などヒロインを含めて登場キャラはすべてに多かれ少なかれ“悪”を内包しています。ゆえに最後の最後に出てくるとあるキャラが“天使”でそれ以外は全て悪人という話なんです」
(とらのあな 発売記念ブック『主よ、人の望みの喜びを』)

 つまり『車輪本編』『車輪FD』が社会の必要悪であったのに対比して、『G線』では純粋に「悪」の視点から物語を構築しているのである。テーマ性にブレはあるものの、そこで描かれるキャラクタたちは紛れもなく『車輪本編』『車輪FD』の系統を受け継いでいる。
 主人公の京介は極道の義父・浅井権三の仕事を借金返済のために働き続ける金の亡者であり、いざというときの機転と本来の陽気な一面は確かに長所だが、実父が殺人犯でありマスコミに追われ続けた過去の過度なストレスから健忘症の症状が見受けられるなど、社会的な強さを併せつつも精神面での弱さが露呈している。まさに賢一同様に両極端な主人公像だ。そんな所属する悪の一面を一手に引き受ける、車輪における正臣の役割を果たすのが京介の義父である浅井権三と、彼の兄である鮫島恭平こと魔王である。両者共に悪を象徴しているのは間違いないが、浅井権三が社会の絶対悪であるのに対比して、魔王の場合は殺人犯である実父の釈放を命題とした信念ある悪であるのは、力持つものの拮抗と些細なきっかけで崩壊する危うさを暗に示しているとも言える。
 対してヒロインたちも当初は大なり小なり危ういものを備えている。クラスメイトの椿姫は盲目的に人の善意を信じきってしまう家族想いのお人好しであるが、一度転じれば家族すら顧みない悪女に転身する気来を持っている両極端な性格だ。義妹の花音はフィギュアスケートの名手を努めるほどの意志の強さがあるが、言葉を換えれば自分本位で他人を省みない。学園理事長の娘の水羽は態度こそ表に出ないものの、好いている相手にどこまでも依存しきってしまう弱さしか備わっていない。そしてメインヒロインのハルは魔王への復讐と殺害にだけ囚われている。作品のテーマにふさわしくヒロイン全員が悪に転じる危機を内包している。
 だがこの作品においても個別の話にて各ヒロインは主人公すら置いてけぼりにしかねないほどの精神面での強さを誇示することになる。京介が仕事にて椿姫の家を地上げのために強襲せざるを得なくなったことに対しても、椿姫本人は京介を庇うための日記帳をその場に残していく気遣いを見せ、花音は世界で誰もが見放した卑しい母親のただ一人の味方であり続けることを決断し、水羽は依存することをやめて姉であり交渉術に長けたユキを見本とした生き方を貫き通した。ハルに関しては物語の最後まで復讐に囚われていたことによって弱い一面しか出てこなかった上に、本人が家族として待ち続ける覚悟をするきっかけとなった事件がドラマCDにて未だに完結していないため消化不良感が否めないが、最終的に京介との子をお腹に宿して、家族として彼の帰りを待ち続けることを選びとっている。また京介自身もハルのルートまでにおける少女たちとの触れ合いを通して、ハルを殺人未遂の容疑から外すために自ら悪役に徹する程度に強靱な精神を獲得するに至ることになる。基本の話に違いはあれど『車輪本編』『車輪FD』と『G線』のキャラクタ配置やキャラクタ同士の独立した魅力に大きな違いは全くないのである。これは商業展開における、るーすぼーいの鉄則の一つであることを意識せざるを得ない。


3.場面演出とパラレルの矛盾

 上記の鉄則に準じたキャラクタたちは誰もが確かに魅力的だ。しかしただキャラクタ個人の魅力だけで今日までるーすぼーいが支持されているとは考え難いものだ。ただキャラクタを動かすだけなら凡庸なシナリオライタでも可能なことだろう。だがそれだけではなく、るーすぼーいにはるーすぼーいにしか成し得ないであろうやり方や話運びにこそ、彼の真骨頂が隠されていると言ってもいいのだ。
 るーすぼーいのこれまで手掛けた作品には必ずと言っていいほど用いているやり口がある。いわゆる叙述トリックである。言葉のレトリックを巧みに使用しユーザーのミスリードを誘う、ミステリーの文脈に則った手法だ。『車輪本編』での「あんた」への独り言が賢一の姉である璃々子に注がれたものであった一連の流れに心をしてやられたユーザーも多いのではないだろうか。『G線』においても目敏いほどに主人公=魔王の二重人格を疑わせる記述を何度となく匂わせることで疑念を募らせるだけに留まらず、魔王が死亡したと思わせておいて生きて帰ってくる場面などで遺憾なく発揮されていた。恋愛ゲームにおいて本格的にユーザーを騙くらかすシナリオライタなど他にいるだろうか。
 叙述トリックとはその性質上、ユーザーの固定観念を逆手に取る以上プロット段階まで練り上げなければ成立しない手法である。このことはるーすぼーい自身も車輪のビジュアルファンブックにて以下のように言及している。

【るーす】「基本的にプロット優先なんで、この無茶なストーリーを通すために世界観も作りました。あくまで筋書きのための設定なんで、実は目に見える部分以外の義務に関わる設定とか存在しないんですよ」
(一迅社『車輪の国 ビジュアルファンブック』)

 以上のことからも伏線の配置、キャラクタ毎に役割の分担、過程から結末に至るまでの流れを大まかに決める段階から組み立てられていることが伺える。構築し完成させるまでの素材が全て用意されているが、その実話運びに必要だからこそ生み出されている。あくまで展開を一筋に決めているところがるーすぼーい作品において見受けられる。山場の場面に至るまでの過程すらも結末のために用意されたスパイスであるように。
 言うなればるーすぼーいは演出家気質であるのだ。場面展開への下準備を、キャラクタ配置にまで気を付けながら詰めていく。大きな流れを全く変えずに場面展開で最高潮のカタルシスをユーザーに味わわせるための演出に抜かりがないのだ。その山場ですらも最終的には結末に至るまでの途中経過として機能させていることこそが彼を演出家として印象づけているのだろう。『車輪本編』で正臣と賢一が最後に互いのブラフを証明しあう場面に至るまででも、「賢一が正臣を出し抜く」と言う場面のための演出として扱われていることが証左だ。大雑把ではあるが物語が破綻していないことが脅威でしかない。
 るーすぼーいを演出家と呼んだ所以はそこにある。一言で言えば天才肌なのだ。プロット単位での綿密な設定を、場面単位の描写を突発的な構築力でコラージュのように繋ぎあわせていくことに長けているのだ。大筋だけ決めて勢いで仕上げること、それがるーすぼーいのスタイルでありセオリーなのだ。
 これら共通ルートないし物語の場面単位に必要以上に力が注がれていることが彼の一番の強みである。しかし各ヒロイン毎の分岐は、あくまで本筋とはかけ離れたパラレルとして扱っている節がある。恋愛ゲームにおいては分岐はセオリーであるが、共通ルートに注力するるーすぼーいにおいてそのセオリーは通用するのだろうか。
 ここにるーすぼーいの致命的な欠点が浮き彫りになってくる。素材は確かに極上であるし手法も全体の流れから決められている、場面毎にコラージュのように繋ぐ話運びは確かに目を見張るものがある。しかしそれ故に本筋とは違うパラレルに走ったときに物語の整合性が全く取れなくなってしまっているのだ。この問題は『車輪本編』では、あくまで共通ルートが本筋でヒロインとの逢瀬がアフターの扱いであったことからあまり問題にもならなかったが、『G線』では章毎にパラレルとしてのヒロインルートへの分岐が存在することで個別間での辻褄合わせが意味を成していないことが浮き出てしまっているのだ。
 わかりやすい例を挙げれば、魔王=恭平はルートの最後に都市を巻き込むテロを敢行する計画を10ヶ年単位で練り上げていたにも係わらず、本筋であるハルルート以外では忽然と姿を消すことになる。長年練り上げた計画を個別ヒロインのルートに突入した程度の差異で簡単に諦めるとは到底思えない。しかしこの部分に関しても、るーすぼーいはG線ビジュアルファンブックのインタビューで公式に解答しているので抜粋する。

【るーす】「(略)実は椿姫ルート、花音ルートでは魔王=京介なんですよ。京介の二重人格なんです。水羽に関しては僕もわかんないです。なんか消しました(笑)」
(一迅社『G線上の魔王 ビジュアルファンブック』)

 つまり魔王の正体を設定単位で変えてしまっている。パラレルにはパラレルなりの分岐と背景をでっち上げて用意する、悪く言えば行き当たりばったりなやり口をにべもなく敢行しているのだ。細部の綻びがあまりにも大きすぎることから鑑みても目に余る醜態と言うほかないだろう。作品全体の配慮に欠けること。それこそがるーすぼーい最大の弱点であることは明白だ。枝分かれした部分にまで目を向ければ大きな穴が見えてしまう、作品に一貫して見受けられる矛盾を一切解消していないことは間違いなく汚点となる。るーすぼーいは場面単位の盛り上げに長けた演出家であるが、シナリオライタとしては致命的な矛盾を抱えているのだ。


4.異例の問題作『その横』

 これまでの話で、るーすぼーいが天才肌の演出家気質であることと、キャラクタや場面のために一定の下地を定めている故に抱えている整合性の弱点を指摘してきた。しかしこれらのセオリーが全く通用しないために、問題作であり怪作たらしめているものがある。それが『その横』である。『その横』は元々の販売元が同人であり、発売時期が『車輪本編』以前の作品である性質上、コンセプトの違いが如実に現れている異作でもあるのだ。架空の法制度による権力の構図もなければ魔王に阻まれる命がけの純愛も全くない。
 もちろんこれまで何度となく記述してきたセオリーに通ずるところは数多ある。キャラクタの独立した強靱さと魅力は、主人公の真之が持っている向こう見ずな人を信じ続ける精神やヒロインの未来が最後まで陸上1500Mを病気を患いながらも完走したところに見受けられている。恒例の叙述トリックを用いた伏線は、義妹の莉寿を陥れた犯人が親友の快音であると思わせて、幼なじみの美桜であったミスリードなども健在である。莉寿が最終的に美桜の過ちを赦す場面までの展開も演出家としての本領を如何なく発揮している。これだけで見れば既存の概念で全て説明できるものであるが、どう足掻いても覆せない違いが大きく分けて二つ見受けられるのだ。
 まずはヒロインと主人公の構図である。『車輪本編』『車輪FD』『G線』の一連の作品群は等しくヒロインが主人公の救済に作用している構図が成立していたのに対し、『その横』は主人公の真之がヒロインたちを救済する話になっているのだ。過去に本当の兄が恋しくて新しい環境を拒絶した莉寿が真之を刺した時、真之は笑って莉寿を心配していたことや、未来が1500Mトラックを走りきる努力を完遂するために、一度陸上競技を諦めた真之も共に走り続けて励まし続けたことや、美桜が孤独に世の中を達観しクラスから孤立していても彼女への気持ちを偽らなかったことなど、真之がヒロインを救済する契機になっていることが最大の違いである。るーすぼーいだからこそ異質になる主人公の扱いだ。
 次に物語の構成である。るーすぼーいの商業作品は前述のように、分岐するにしても『車輪本編』の場合はあくまでおまけとして割り切っており、『G線』に至っては章毎にヒロインルートへと脱落する形式を取っているなど、共通ルートやハルルートなどの話の大筋が前提条件となり物語が展開されている。しかし『その横』に限れば、共通ルートの選択肢でヒロインを中心に場面展開する、従来の恋愛ゲームの文脈が用いられているのだ。パラレルを容認していることで物語の整合性に気を付ける必要もなく、恋愛ゲームとして正しく形を保っていると言い換えてもいい。
 以上の点を鑑みても『その横』は異例として扱うことしか選択肢が用意されず、セオリーに反しつつも作品を裏切っていない怪作であると言えるだろう。『その横』にこそ、るーすぼーいの全力を垣間見ることが出来るのかもしれない。


5.最後に

 これまで長らく作品全体を通じて、るーすぼーいと言う人物について言及してきた。基本的に作品構造を見つめ直すことや手法の賞賛ばかりで埋めてきたが、醜悪極まりない弱点も同時に言及させてきた。それは偏に、自分がどれだけ言葉を取り繕うとも、弱点を批判しようともるーすぼーいの計算とはほど遠い「演出家」としての側面と、その演出で演じられた愛らしくも脆いキャラクタたちを愛しているからである。どれだけ矛盾を突こうとも感動させられた心だけは本物なのだから。
 だからこそ最後に、向日葵の少女たちやG線上の悪魔たちや横顔に魅せられた一人として、向日葵の花言葉の一つを添えて今回の文責を終えることにする。

「私の目は、あなただけを見つめる」