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『いろとりどりのミライ』所感 ―あるいは『いろどり』という作品群への総括―

  • 前置き

まず最初に断らなければならないが、現在時点で自分は『いろとりどりのセカイ WORLD'S END COMPLETE』同梱特典オリジナルラノベ『いろとりどりのミライ』についての詳細な事柄を口にすることが出来ない。それについて何がしかの言葉を口にするには、まずこれまで紡がれてきた物語とそこから育まれてきた感情によって敷かれた前提条件を振り返る必要があるからだ。つまるところ問答無用で『セカイ』および続編作である『ヒカリ』の内容に真に迫る勢いで踏み込まなければ『ミライ』には到底進めないのである。
なので、簡潔にではあるが『ミライ』を語る上で必要な『セカイ』および『ヒカリ』の要点のみを述べさせていただくことを許していただきたい。

  • 前提条件および愛憎の始まり

『ヒカリ』は『セカイ』における設定の消化不足、あるいは描写されなかったシーンの問題について「話を追加する」という正攻法を真正面から追求した作品であり、その点は物語の補完を行うという本来的な意味でのファンディスクの役割を全うした形になるのだろう。しかしそれらの挿話の果てに開放されるのが、主人公である悠馬≒最果ての古書店の管理人が犯した罪悪について贖罪の方法を問うた最終ルートであったわけなのだが、その『ヒカリ』における贖罪行為もまた罪悪の上に成り立っていることを忘れてはならない。というのも贖罪行為そのものが『ヒカリ』において悠馬に贖罪を強いた本来の悠馬(以下:ユウマ)が、古書店の管理人である悠馬の犯した罪悪の第一被害者であるが故に引き起こされた復讐だからである。復讐の是非そのものや正当性に関してここで論じるつもりはないが、ユウマにとって悠馬は復讐の対象である以上贖罪行為を強いる動機が発生し得るのである。
『ヒカリ』において自分が抱いていた問題意識とはまさにその贖罪および復讐行為の内実である。当人同士で復讐と贖罪が完結するならまだしも、メインヒロインを含めた登場人物全員の関係性に歪を生じさせるような規模にまで膨れ上がり、挙げ句の果てにはメインヒロインである真紅が一定の期日を迎えると死ぬ運命に定めてしまった上に○○(さすがに自粛)を孤独な境遇に追いやってしまっては、それはもはや復讐ではなく単なるテロリズムであると断じざるを得ない。元の原因となっている罪悪以上の行為を重ねてしまっては被害者として持ち得る正当性すらも担保されないのだから、言行不一致であるとしか思えないのである。
ただでさえ『セカイ』では真紅は悠馬との再会を待ち焦がれていて、それを果たした末にこの仕打を受けるのだから『セカイ』に、ひいては真紅に魅了されればされるほど『ヒカリ』の抱える物語造型は許しがたいものがあったのだ。

  • 踏まえた上での『ミライ』

さて、以上のように『ヒカリ』に対して複雑…とまではいかないまでも私怨に近い感情を抱いている状態がゲームクリア時から11ヶ月続いた末に齎されたのが、今回の『いろとりどりのミライ』である。『ヒカリ』の後日談という体裁を整えている、というだけで『ヒカリ』で生じた諸々の感情の決着を漸く見られるのではないか、という淡い期待…あるいは藁にも縋りたい思いがあったのは言うまでもないことである。
そしてその内容は、正しくデファクトスタンダードとしてのファンディスクの役割を全うし、『ヒカリ』で抱いた愛憎半ばの感情の大半を払拭してくれた。
『ヒカリ』では結局果たされなかった、何事もないヒロインとの幸せな日々が『ヒカリ』の後にも続いていることが再確認されたことで、あのテロリズムを経た後に見たかった光景が補完されたのが一番の収穫であり最も望ましいものであったのだから、これだけでも素晴らしいと言う他ない。加えて、復讐に走ったことを理由に贖罪の旅をしているユウマが複数のセカイ…ヒロインとのアフターストーリーが紡がれるセカイの悠馬を陰ながら支え、時には助けるために渡り歩く道程が大筋に盛り込まれており、『ヒカリ』で示された贖罪をユウマが自身にも課していることで『ヒカリ』での行為の釣り合いが取れているのも大きかった。
が、これだけ望んだ『ミライ』が書き綴られていたことにより『ヒカリ』で得た感情が払拭されたにも係わらず、新しく『ミライ』を書き上げたことでどうしても考えこんでしまう部分が出てきてしまったのもまた事実である。それはエピローグにおけるラストシーンに理由が存在する。
そのシーンとは、最終的にユウマが悠馬に復讐に走ったことへの謝罪を口にするというものである。確かに直接的な被害を被ったのも悠馬であるし復讐の対象は悠馬であるのだから、その部分において正当性は担保されているし、真紅や○○を巻き込んだことにも申し訳なさを感じていると独白されてもいるが、あくまで謝罪は悠馬に留まるものであり一番の被害者である彼女たちとは、ついに一言も言葉を交わすことなく終わるのである。つまるところ、彼女たちと面と向かって話し合うという可能性を残して欲しかった、という個人的な我侭なのだ。復讐に対する感情の置所は確かに当人同士で一応の決着を見たし贖罪の旅を通してユウマの立ち位置にも変化が生じていったが、結局彼女たちは当事者であるにも係わらず何も知らされないまま(謝罪すらもないまま!)日常へと回帰していくのである。

  • まとめ

『いろとりどりのミライ』によって大方の愛憎は解消されたことにより評価や感情も一定した故に、フラットに「素晴らしい」と言える物語とキャラ造形を眺めることが出来るようになった。『セカイ』『ヒカリ』と続いた作品群に最後まで付き合うだけの価値を見出すことも出来た。だからこそ、それだけに最後の最後に果たすべきものが果たされないまま終わることだけが残念でならないのである。